私が今この仕事を続けてこられた要因の1つに父がいます。
本当に幼いころから父に普通ではできないような経験を幾度となくさせていただきました。本当に感謝しています。
そんな父の話を今回させていただきたいと思います。
家では、父が白というものは白、黒というものは黒。
『The・亭主関白』という人で自分にも厳しく、
人にも厳しい人でした。
仕事では海運業を手掛けていた父ですが、
日本最大手の某自動車メーカーとの合弁会社を立ち上げて(現存しています)、国内外で大きなシェアを誇っていた数多くの日本メーカーの車を輸送する事業をしており、日本経済を支える大きな役割を担っていました。
国内に限らず、海外出張もよくしていた父は家を留守にすることが多く、幼い私は、たまに帰ってくる父が怖くて怒られないように必死に勉強していた覚えがあります(笑)
私が少し大人びてきた20歳くらいの頃でしょうか。父から社会勉強にと少しずつ自身の仕事のイベントに誘っていただくようになりました。連れ出される場にいらっしゃる面々はトップ企業の経営者たちばかり。
仕事場を見せられて、
すべてに妥協せず的確で素早い決断と駆け引きを行うビジネスマンとしての父。
何千、何万人もの部下の生活が懸かっているわけですから、一つ一つの決断のすべてにとてつもなく大きな責任がのしかかっていたのでしょう。家の中で大事に育てられ、知る由もなかった私ですが、この時から父の人となりを理解し、今まで以上に尊敬するようになりました。
もう一つの大きな経験は、ご一緒させていただくトップの方々からの金言でした。生意気ですが、社会を知らなかった私でも日本という国、社会の本質をその方々を通じて窺い知ることができたのだと思います。
この若い頃に何よりも代えがたい有意義な時間を過ごさせていただいたことを今でも父に感謝しております。
後に壮絶な社会デビューをした私でしたが、この時の経験がなかったらあの倒産目前の状況を乗り切れなかったかもしれません。
10数年前になるでしょうか。
行政の上の方とお話をさせていただく機会があり、話の中で、私の父の話になりました。
父のことをよく知る方だったのです。
当時の話に花が咲き、私の知らない父の一面を伺えました。
最後に「いつの日か父のようになりたいと思っています。」と
伝えたのですが、その方の衝撃な返答を今でも忘れられません。
「あなたがダメなわけではありません。日本が一番輝いていた高度成長期。あの当時先頭を歩いていた人たちはもう次元が違います。すごすぎたんです。あの人たちと同じレベルは時代的にも難しいんです。」
はっきりと否定をされたわけですが、不思議と反発はなく、スッと胸の中に言葉が入ってきました。
また、ありきたりな応援の返答ではなく、真摯にご自身の見解を述べてくださったことに非常に好感を持ちました。
そんなすごい父の娘だったのだととても誇らしくて嬉しかった覚えがあります。
父が亡くなって、20年近くが経ちます。本当にすごい人でした。亡くなっても存在を感じる機会が度々あるんです。
4~5年前に、小学館の撮影で三菱の長崎造船所の資料館を訪れた時、
あの当時と少し変わってはいますが、「父と一緒に新しい自動車専用船のテープカットをした場所だわ…。」と思い出し、
スタッフ達と話をしていると担当者が「まだ、当時の資料があるかもしれませんので探してきます!」と資料保管庫を探してくださいました。
すると本当に私と父でテープカットをしている写真が出てきたではありませんか…。
そのほかにもいくつものカットが出てきて、父とのその当時の記憶が昨日のように鮮明に蘇りました。
自分が行きつく場所で感じる父との繋がり。
今だからわかる偉大な父への尊敬。
経験をさせていただいた事への感謝。
父と遭遇する度にいろいろな感情が私の中でこみあげてきます。
今でも父の娘であったことを誇りに思っていますし、その背中が私の道しるべです。
私は私なりにその背中に向かってコツコツ歩いていきたいと思います。
中島香里
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